神様がくれたアディショナルタイム「妻、小学生になる」レビュー

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テレビドラマでも話題になった「妻、小学生になる」。
この作品は亡くなったはずの妻が、小学生として帰ってくるストーリーです。

どこか「いま、会いにゆきます」を思わせるものがあり、その作品同様やはり心に響く名作です。

悲しみを湛える中にも単なるお涙頂戴ではなく、本当の意味でのヒューマンストーリー。
そんな家族への思いや生きる意味を描く物語、それが「妻、小学生になる」なのです。

ストーリー

10年前、新島圭介は最愛の妻・貴恵を亡くし、未だ失意の中に生きている。
それは、もうじき三十路を迎える娘・麻衣も同じで、死んだように暮らしていた。

そんなある日、ランドセルを背負った小学生の少女が二人の前に現れる。
そして、父と娘に厳しくも温かい叱咤激励をする。

「弁当ばかり食べてないで、ちゃんとした夕飯を食べなさい!麻衣!花の20代なのに引きこもってないで外に出なさい!どうかもったいない生き方をしないで…」

どうやら、貴恵の人格が赤の他人に乗り移ったようだった。
大喜びする圭介と麻衣。

こうして、貴恵は再び夫と娘と邂逅した。

貴恵の想い

貴恵は10年前、事故に遭い急逝しました。
良き旦那、良き娘に恵まれた幸せな生活を送っていただけに、さぞかし無念だったことでしょう。
貴恵は家族にとって太陽のような存在だったため、残された家族はそれ以上に深い悲しみを味わいました。

そんな中、突然訪れた奇跡の再会に喜びを隠せない新島一家。
それは、貴恵も同じ思いでした。
本来ならば見ることのできなかったはずの、圭介と麻衣の姿をまたこうして見られたのですから。

それと同時に、貴恵は二人には自分の死を乗り越えてもらいという思いも持っていたのです。
だからこそ、再会して間もなく、貴恵は圭介に言いました。

「本当に私に感謝しているのなら、私がいなくても進んでいけるっていう姿勢と未来を見せてよ!」

貴恵は今、小学生の白石万理華として存在しているのです。
実は、貴恵は生まれ変わりではなく白石万理華に憑依したのであり、それぞれの人格を有していました。
なので、普段は貴恵の人格で過ごしていましたが、ふとした時に万理華の人格に戻ります。

憑依という事実を確信し、貴恵は決断します。
本来、この体と人格は万理華のものであり、いつか自分の人格を消し去り彼女に返さねばならいということを。

そのためには、自分がいなくても夫と娘が自立して暮らす姿を見届けなければ、安心して天に還ることができなかったのです。




夫・圭介の決断

貴恵の真意を聞いたものの、最初は受け入れることができなかった圭介。
それはそうでしょう。
10年間想い続けた最愛の妻とやっと再会できたのに、再び永遠の別離が訪れてしまうのです。

それは当然、娘の麻衣も同様です。
いや、ある意味、圭介よりも辛かったかもしれません。

実は、圭介は部下の好美に想いを寄せられていました。
しかし、妻一筋の圭介は好美の気持ちには応えられませんでした。
とはいえ、妻の決断を尊重せざるを得ないとも思っていたのです。

そんな上司の苦しい胸の内を理解する好美は、圭介に一計を持ちかけます。
貴恵を安心させるため、ふたりが付き合っているふりをしてはどうかと…。
もちろん、好美には下心などなく、圭介の心には妻以外の女性が入る余地がないことも悟っていました。

好美にとって、さぞや苦渋の決断だったことでしょう。
もはや、それは恋を超越し、愛の領域に踏み込んでいたのかもしれません。
なぜならば、自分の願いではなく、圭介と貴恵の想いを叶えるために行動したのですから。

そして、圭介が好美に指環を渡しプロポーズする姿を見届け、貴恵は天に戻っていきました…。


妻、小学生になる。 1巻 (芳文社コミックス)

所感

物語が進むうち、貴恵と家族の永遠の別れが暗示され、とても辛い気持ちになっていきました。
このまま新島一家にはつつがなく幸せを築いて欲しい…そんな願望が強かったからでしょうか。

ですが、エンディングを見て、貴恵の決断が正しかったことを痛感します。
貴恵が存在し続けることは、万理華ちゃんの人生を奪うことなのです。
貴恵の人格が消え、本当の娘が戻って来たときの母親の涙を見た瞬間、そのことを心から理解できました。
離婚を経験し、かつてネグレクトをしていた母親が娘を固く抱きしめているのです。

自然の摂理に逆らうことは許されません。
そうは言っても、様々な未練を断ち切り、英断を下すことは簡単ではなかったはずです。
人は一面からしか物事を捉えられない生き物です。
自分にとって目の前の出来事が好ましければ好ましいほど、他人の気持ちなど霧散してしまいます。
圭介、麻衣、そして貴恵の勇気と素晴らしい人間性に深い感銘を受けました。

私は新島一家の有り様に、「スヌーピー」のワンシーンを思い出しました。
ある日、スヌーピーの良き友人チャーリー・ブラウンはクリケットの試合をしています。
リードを許した最終回、彼のチームは逆転サヨナラホームランで勝利しました。
あまりの劇的な幕切れにチームメイトは大喜び。
彼らはチャーリーにも歓喜の輪に入るよう促します。

すると、チャーリー・ブラウンは呟きました。

「相手のチームはどうかな」

勝利の喜びが大きいほど、敗北を喫した相手の失望は大きいことでしょう。
チャーリー・ブラウンは、敗者の痛みに思いを馳せることが出来るのです。

それは貴恵も同じです。
自分達の幸せの代償に、万理華と母親の人生を奪っていることに心を痛めます。
一度死んだ者は、決して生き返らないという摂理。
この理に反することは、何人とたりとも許されないのです。

そして、素晴らしい読後感が残るエンディング。
話の展開上、ともすれば悲しみしか残らない結末になると思っていました。
ですが、当事者達はなぜか、みな幸せそうです。
あまりにも哀しい失恋をした好美でさえ、至高の愛に触れられた充足感に満足そうな表情を浮かべています。

この物語が我々に語りかけるものとは一体何でしょうか。
きっと、それは「悲しい現実にどう向き合うか」だと思うのです。
つらい出来事に遭遇したとき、この世の終わりのように落胆する人もいれば、そこまで悲壮感を漂わせない人もいます。
同じものを見ても、ネガティブな感情を抱く人もいれば、ポジティブに感じる人もいます。

たしかに、最愛の人との別離は身を切られるような痛みを伴います。
しばらくは、悲しみに暮れるのも仕方ないでしょう。
立ち直るのに時間もかかることでしょう。
実際、本作でも夫と娘は貴恵が再びいなくなる未来を受け入れられず、血を吐くような苦しみに苛まれます。

ですが、涙をたくさん流したら、改めて思い出してみることです。
その人との楽しかった思い出を。
かけがえのない幸せだった日々を。
大切な人と出会い、共に過ごせた奇跡を。

思い出は決して悲しみだけを増幅させるものではありません。
そのかけがえのない時間があればこそ、我々は今こうして存在するのです。
そして、それは未来を生きる力になるはずです。

大切な人を喪い、生きる希望を失った人もいるでしょう。
でも、急ぐことはありません。
人はいつか必ず死ぬのです。

貴恵は圭介に言いました。

「きっと…また会える。その時に、あなたが人生で何を見て、どう感じたか私に全部話して欲しい」

そのためには、嘆き悲しんでばかりいては思い出話などできません。
いろいろなことにチャレンジし、自ら体験して、自分色の人生を生きなければなりません。
それは、些細なことでも構いません。
人から見たら、取るに足らないことでもいいのです。
もし仮に、大切な人との再会が叶ったとき、目を輝かせて話せることならば、それはあなたの生きた証そのものです。

神様がほんの少しだけ与えてくれたアディショナルタイム。
それは父と娘だけでなく、多くの人々を幸福に導きました。


妻、小学生になる。 最終14巻 (芳文社コミックス)

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