「人間交差点(ヒューマンスクランブル)」は、「課長島耕作」などの作者・弘兼憲史による漫画である。
昭和50年代中頃から平成の初期まで連載され、高度経済成長期における光と影をテーマにした内容となっている。
数々の珠玉の名作の中で、今回は女子少年院の教官が主役となる「教官の雨」を紹介する。
ストーリー
そこはK女子学院、いわゆる非行少女が収監される少年院である。
野崎洋平は34歳の教官だ。
野崎は心を痛めていた。
ここを退所した少女の3人に1人は戻って来る。
「自分はいったい何をしていたのかと…」
数多の生徒を見て来た野崎には、とりわけ印象的な少女がいた。
その少女・菊島あけみは1年前に仮退院している。
住所こそ何度か変わっていたが、毎月欠かさず野崎に手紙を寄こしてくれていた。
ところが、ここ3ヶ月ほど音信不通になってしまう。
野崎は日増しに不安が募っていった…。
菊島あけみ
菊島あけみが入所してきたのは2年前に遡る。
彼女はIQ140と非常に頭が良かったが、それ以上に反抗的だった。
そして、野崎が出会った少女たちの中で、最も哀しい過去を持つ少女でもあった。
幼い頃に父を亡くし、その後再婚した義父に性被害を受けてしまう。
母を悲しませたくない菊島あけみは家を出た。
真っ当な仕事も探したが、14歳の少女を雇う企業は当然ながら皆無である。
こうして、あけみは売春や窃盗などに手を染めていく。
そんな彼女は決して人を信じず、粗暴な振る舞いに終始する。
まるで、歪んだ現代社会の落とし子のようだった。
初めての信頼できる大人
そんなある日、事件は起こった。
あけみは腹痛を訴え、心配して駆け付けた野崎を殴打し、脱獄を試みた。
日頃の素行もあり、ほとんどの教官が警察に捕まえてもらうことに賛成する。
だが、野崎は真っ向反対する。
以前、付き合いのあった組事務所にいるはずなので、自分が迎えに行くのだと。
野崎は単身、組に乗り込んだ。
当然ながら、「はいそうですか」とはいかない。
執拗に食い下がる野崎は、ヤクザから殴る蹴るの暴行を受けた。
だが、野崎は必死にあけみを呼び続ける。
「菊島ッ!菊島ッッ!!」
その姿に、あけみは胸がいっぱいになった。
「せ…先…先生!」
結局、ふたりは半殺しの目に遭いながらも、少年院に戻って来た。
その日から、菊島は人が変わったように態度を改めた。
そして、1年2ヵ月後、仮退院することが決まる。
「先生、手紙書くからね。絶対、書き続けるからね!」
そう言うと、菊島あけみは保護司の付き添いのもと、少年院を出て行った。
実際、あけみは手紙を書き続けた。
「我がままを言ったり、ひねくれたりしましたが、先生がとても好きでした。先生だけを頼って生活してきました。もうここへは2度と戻って来ないということと、大好きな先生に手紙を書き続けることを約束します」
手紙を見た野崎の目には光るものがあった。
野崎の決意
野崎はある決心を下す。
最後の手紙に記された住所を訪ねることにしたのである。
しかし、院長は反対した。
「菊島あけみの手紙に書いてある住所は、1年間に5回も変わっている。新宿、池袋、浅草、大宮、川崎…全て大きな繁華街がある場所ばかりです。おまけに、最後の手紙には正確な番地さえ書いていなかった…」
このように退院後、繁華街のある都市を転々とする場合、たいていは夜の街に身を落とすことがほとんであった。
しかも、あけみはすでに18歳なのである。
法的にも、周りの者がとやかく言える筋合いには無かった。
しかし、野崎は反論する。
「たとえ違法でなくても、止めさせるべきだと思います。14歳から体を売ってきた菊島が、心身ともに荒廃した最大の原因はそこにあると思います!」
そして、不退転の覚悟で言い切った。
「それを止めさせない限り、菊島は必ずここに戻ってきます!」
結局、野崎は所長の反対を押し切り、最後の手紙に記されていた川崎に向かうのであった。
再会
町名しか分からぬ中、野崎は菊島あけみを懸命に捜す。
その界隈は、やはりスナックや風俗がひしめくように軒を連ねるネオン街だった。
1軒ずつ聞き込みをしていくが、行方はようとして知れなかった。
気がつくと、野崎は雨に打たれていた。
心身ともに疲弊した野崎はラーメン屋の看板が目に入り、食べていくことにする。
ラーメンをすすっていると、若い女性が出前から戻って来た。
そして、すぐに次の出前の準備をする。
なかなか繁盛しているようだ。
「ご苦労さん。大変だったね」
労いの言葉をかける店主に、ずぶ濡れになった女性は答えた。
「へっちゃら、へっちゃら。次はどこ?」
その声に、思わず野崎は振り向いた。
なんと!菊島あけみだったのだ!
息をひそめ、ふたりの会話に耳を澄ます。
どうやら店主とあけみは恋仲にあるようで、ようやく二人の店を持てた様子である。
店主は話柄を変えた。
「ところでさ、そろそろお前の大好きな先生に、俺達のラーメンを食べに来てもらってもいいんじゃないか?」
おかもちを持つあけみは言った。
「まだ独立して3ヶ月じゃない。もう少し経って、店を模様替えしてからよ…突然呼んで、びっくりさせるんだから。このままじゃ汚くて、びっくりされちゃうじゃない!」
出前に向かったあけみに、野崎は万感の思いが込み上げる。
こぼれる涙もそのままに、心の中でエールを送った。
「そうだったのか…お前はとうとう…死ぬまで頼れる自分だけの先生を見つけたんだな…がんばれ菊島!先生はお前を誇りに思うぞ…がんばれ!!」
いつもより、ラーメンは塩味が効いていた…。
所感
人間交差点という作品は昭和の陰の部分に焦点を当てるため、ときには救いのない結末になることも少なくない。
だが、本作はハッピーエンドを迎えることもあり、私が好きな物語のひとつとなっている。
母の幸せを願い、わずか14歳で家を出た菊島あけみ。
このことからも分かるように、彼女は元々やさしい女の子だった。
だが、14歳の少女が生きるにはダークサイドに堕ちていくしかなかったのである。
どれほどの地獄を見て来たのだろう…。
少年院に収監されたときには、全く人を信用しなくなっていた。
そんな菊島あけみに、再び人を信頼する心を取り戻させたのが野崎だった。
脱獄の際、頭から流血するほどの殴打を受けながら、文字通り体を張って教え子を救いに行く野崎。
その姿に、警戒と反抗という鎧に覆われたあけみの心は氷解した。
心を入れ替えた少女から野崎に届いた手紙。
その内容を見て、涙腺が崩壊したのは野崎だけではないはずだ。
以前、教員の知り合いに、教師という仕事の魅力について聞いたことがある。
子どもたちと関われること、そして、生徒たちの成長が何よりも嬉しいのだと語っていた。
本作品を見ると、たしかにと納得させられる。
そして、偶然行きついたラーメン屋での一方的な再会。
あけみが気付かない演出がまた素晴らしいではないか。
もう少ししたら、あけみからの招待状が待っている。
教官・野崎にとって、こんなに嬉しいことはないだろう。
私はこの物語を読んで、BARレモン・ハートの「再会」というドラマを思い出した。
そこに登場したのが、久保田先生という大学教授だった。
マスターとの久々の再会に相好を崩しながら語り出す。
「世の中にはたくさんの出会いがある。その中でも一番素晴らしい出会い、それは再会だ」と。
野崎は非行少女たちの現実を前にして、やりきれない気持ちを抱えていた。
そんな忸怩たる思いに苛まれる教官にとって、あけみとの再会は明日を生きる力になったに違いない。
おそらく、退院後の菊島あけみの苦労は筆舌に尽くしがたいものがあっただろう。
たった1年の間に、5か所も住所が変わっていることからも推し量れる。
それでも野崎との約束を果たすため、歯を食いしばって頑張ったのだろう。
菊島あけみの忍耐と心の強さに頭が下がる思いがする。
逆に言えば、野崎との邂逅はあけみにとって僥倖だったに違いない。
前科者の十字架を背負いながら、ようやく手にした少女の幸せ。
ともにラーメン屋を営むパートナーも、人柄が好さそうで何よりだ。
人間交差点「教官の雨」。
この名作に、人との出会いの大切さを改めて教えられた。
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