人間交差点③「あの日 川を渡って」レビュー

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父を早くに亡くし、母とふたり生きてきた若い刑事。
一方、母は貧しくとも、明るく懸命に息子を育てた。

そんな母が唯一、表情を曇らせたあの日。
母が見せた悲しい背中を、少年は生涯忘れることはなかった。

ストーリー

片田刑事は、路地裏で張り込みをしていた。
すると、相棒の先輩刑事が電報を持参して現れる。
そこには「ハハキトク スグカエレ」の文字が記されていた。

先輩は母のもとに行くよう諭すが、片田は動こうとしない。

「いえ仕事ですから。ダフ屋も立派な犯罪です。僕は刑事として犯罪に軽いも重いもないと信じています」

いまどき珍しい一本筋の通った硬骨漢の片田だが、本心はすぐにでも母のもとに向かいたかった。
だが、片田にはどうしても忘れ得ぬ母との思い出があったため、刑事の職務を全うしようとするのだった。




少年の日の出来事

片田を遅く授かった母は夫と死別したこともあり、不安だったに違いない。
だが、そんなことはおくびにも出さず、片田少年の前ではいつも笑顔を見せていた。
そんな母を片田は心から尊敬し、大好きだった。

ときは1964年秋、間もなく東京オリンピックが開幕する。
なんと、母は開会式のチケットを入手した。
ふたりは、その幸運に狂喜乱舞する。

開会式当日、母と子は精一杯おめかしして、始発電車で多摩川を越えて会場へ向かう。
その川を渡るのは、父が死んでから初めてだった。
母は本当に楽しそうだ。
自分がオリンピックの開会式を観戦することよりも、息子に見せてやれることが何よりも嬉しかったのである。

ところが、入場しようとすると、チケットが偽物だったことが判明する。
どうやら、質の悪いダフ屋につかまされたようだった。
母の消え入りそうな背中が、少年の脳裏に焼き付いた。

片田は無理やり笑みを浮かべ、母に話しかける。

「母さん…今日はとっても楽しかったよ。嘘じゃない、僕は本当に楽しかった」

「ごめんよ、良夫…母さん、お前に何もしてやれなくて…」

哀し気な表情で、息子の手をギュッと握る。
その日以来、二度と母は川を渡ることはなかった。

その瞬間、少年は心に誓う。
「刑事になろう」と。

そして、身に沁みた。
罪に重いも軽いもないことを。
犯罪はいつも弱者をいじめるということを。
僕と母にとって、あの時の偽物の入場券はあまりにも重い罪だった。

母への想い

母は今も、あの街でひとり暮らしていた。
息子の仕送りも拒否して、働きながら生きている。

その母がたった独りで逝こうとしている。
片田が辛くない訳がなかった。
でも、自分は刑事という仕事に命をかけている。
母は分かってくれるはずであり、自分が行くまで頑張ってくれるに違いない…。

そう自らに言い聞かせる片田の前に、犯人が現れた。
逃げる犯人を片田は追う。
なぜならば、刑事になったとき、母はとても喜んでくれたからだ。
罪を追う、自分の仕事を誇りに思ってくれていた。

犯人を捕獲し、朝日が昇る中、片田は母のもとに向かった。
あの川を渡って…。

「母さん…今帰ります。僕が着くまで、待っていてくれますよね。僕を生んで育てたあなたです。頑張ってくれますよね…」

息子の祈りが通じ、母は片田の到着から2時間後、息を引き取った。

死ぬ間際、一度だけ意識を取り戻す。
そして、あの日と同じく息子の手をギュッと握り、こう言った。

「オリンピック…ごめんね…」

片田は母の手を握り返し、心の中で何度も繰り返す。

「ありがとう」という言葉を…。

所感

片田良夫刑事は、本作にたびたび登場する。
何しろ「人間交差点」の最終回に登場し、不朽の名作の最後を締めくくったのが片田だったのである。
探偵の松本とともに、心に残る人物だった。

その片田の原点を描いたのが、「あの日川を渡って」である。
真面目で誠実な片田刑事の人格形成は、この母なくして成し得なかった。
子どもにとって母の存在が、いかに大きいかがよく分かる。

それにしても、偽物のチケットの一件が母を生涯苦しめたことは本当に悲しい。
今わの際まで、あの日の出来事を引きずっていたのだ。
そんな少年の日の蹉跌を糧にして、罪を憎み、正義を体現せんとする片田の刑事魂。
本当に素晴らしい息子に育てあげた。

物語の最後に母の最期が記されている。
55歳の若さで脳内出血により逝去したという。
あまりにも幸せ少ない生涯だったとあったのだが、私は一概にそうはいえないと感じた。
たしかに、女手一つで子どもを育てあげるには苦労の連続だったことだろう。
だが、こんなにも優しい真っ直ぐな息子に恵まれたのだ。
我々の計りを超えた、母の幸せがあったと願いたい。

そして、物語のエンディング。
母を信じ、己の職務を全うする片田。
息子の願いを叶えるため、最期の別れのときまで親の役目を全うする母。
ふたりの絆の深さが垣間見える。

「オリンピック…ごめんね…」

息子へのラストメッセージに涙腺が崩壊する。

本当は、片田は「楽しいオリンピックだったよ」と言おうとした。
だが、涙で声にならない。
だから、「ありがとう」と心の中で語りかけたのだ。
握り返した手の温もりから、きっと想いは伝わったに違いない。

お互いを思いやる、誠実な母と息子の物語「あの日川を渡って」。
数ある「人間交差点」の名作の中でも、珠玉の作品だった。


人間交差点(2) (本作品収録巻)

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