日経テレ東大学RE:HACK「芥川賞作家・羽田圭介」編 ~文学で自分という宇宙を旅しよう~ ②

ノンフィクション




YouTubeチャンネル「日経テレ東大学 RE:HACK」で、芥川賞作家・羽田圭介をゲストに招き文学を深掘りする後編。

今回も、3人の天才たちがざっくばらんに語り合う、楽しくてためになる教養番組となった。

現在の国語教育への疑問

のっけから、羽田圭介のエピソードに笑ってしまう。

まず、成田悠輔が国語教育についての疑問を呈す。

「情報伝達に関する事柄では意見を論理的に伝えることと、経験や感情を伝えたり表現したりすることは全く別のことだと思う。前者についてはやり様があるが、後者についてはシステマティックに教えることは可能なのだろうか。たとえば小説みたいなものをどう書くか、あるいはどう読むかということは、カリキュラムという形で訓練できるのか」

それを受け、エピソードを語る羽田圭介。
羽田は以前、自らの芥川賞受賞作品「スクラップ・アンド・ビルド」を問題にした国語のテストを受けたことがあるという。
しかし、文章の意味を読み解く選択問題で、間違いまくったと言うのである。

作者が試行錯誤して書いた文章である。
ならば、作者がこれだと思って選んだ答えが正解のはずだろう。
なのに、正解はテストを作成した国語教師の見解に委ねられるのだ。
このパラドックスに、国語の長文読解とは一体なんなのかと噴き出してしまった。

羽田圭介は、そのことについて見解を述べる。

「テストを作った国語の先生に多くの批判が集中した。でも、それは違う。国語のテストとは、この場合はこれを選択するというような、いわゆる空気を読む作業だと思う。僕は国語のテストをしばらく受けていなかったんで、勘が鈍っていただけのことである。だから、先生を責める気は一切ない」

だが、こうも付け加えた。

「ただ、その国語の問題に何か意味があるのだろうか…とは思う。“こういう時はこれが正解である”という空気を読んでいるだけの教育って、何なんだろうなと感じた」

文章を読みながら、個人の体験やイメージを駆使して頭の中で絵を描き、想像の翼を広げ、自分という宇宙を旅するのが小説の醍醐味であろう。
なのに、無機質に型にはめて答えを導き出す、現在の国語教育。
果たして、豊かな感性を育めるのだろうか…。




文学の可能性

成田悠輔は文学の可能性について言及する。

「小説や文学は普遍的な可能性があるように思う。言葉で作られたフィクションは情報量が低く余白が大きい。余白が持つ、ある種のメタバース性や世界性は人を没入させる力が強い。一方、画像や動画は情報量が言葉よりも遥かに多く、逆に確定してしまう。
たとえば、小説で“トンネルを越えるとそこは雪国だった”という描写があると、たったそれだけの少ない文字数で動きを持った空間が起ち上がる。しかも、その起ち上がり方が人によって少しずつ違うが、共通したものも持っている。そこに凄く不思議な没入感を作り出す能力があるのではないか」

その話をじっと聞いていた、ひろゆきが口を開く。

「“トンネルを越えるとそこは雪国だった”という描写は日本人には分かるが、雪を見たことがないアフリカ人には何の情景も浮かばない。短い言葉で多くの情報を与えることは、暗号化復号化の圧縮技術なのではないかと思う。優秀な人に短い言葉で1言うと10分かるのが、復号できるということだ。そこの能力が高い方がコミュニケーションも早く、優秀な人が多い」

ひろゆきの解釈に頷く成田悠輔。

「その点で言うと、文脈とか文化を共有していて、かつ情報処理能力が高い人達の間では言葉ベースの情報の共有が早く、感情とか雰囲気の共有も早いのだと思う。それは、チャットベースで仕事を進めた方が、ある種の人達にとって対面の会議よりも早いということと関係している」

私はこのやり取りを聞き、ストンと腑に落ちた。
優秀で忙しい人ほど電話を嫌い、メールやチャットで要件を済ます傾向があるように感じていた。
電話は相手の都合にお構いなくリアルタイムでコミュニケートするツールなので、多忙な人ほど邪魔に感じるのだと思っていた。
だが、それだけでなく、能力が高い者同士なら最小限の情報量だけで事足りるのだ。

そして、ひろゆきの“言葉の圧縮技術論”を聞き、「そりゃそうだ」と思ったことがある。
私も勘が悪い方だが、途方に暮れるぐらい話が通じない人がいる。
よくIQが20違えば話が通じないと言われるが、そもそも情報処理能力が違うのだから、かみ合わないのは当然なのである。

もうひとつ、おもしろかったことがある。
表現の規制が厳しさを増す昨今、メタファー(隠喩的)に書くことも一手段ではないか、という話が出た。
その意見に同意する高橋プロデューサーは、メタファーを読み解く重要性を語り出す。
そして、これまでの長い討論に楔を打ち込んだ。

「岡田斗司夫さんみたいな、メタファーを面白く解説してくれる人が増えるといいなあ~。そうすれば、昔挫折した『ドグラ・マグラ』も読めるような気がする」

成田悠輔は頭を抱え、苦笑しながら呟いた。

「90分話して、岡田斗司夫に解決してもらおうって…」

脱力する成田悠輔であった。


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大衆を支配する現代文学

ひろゆきが語った“スタンプ文化論”も興味深い。
現代日本では文脈や状況証拠が不十分でも、“この人が悪い”という空気が醸成された途端、一斉に社会全体で袋叩きにする。
そういう傾向は加速されていると、ひろゆきは言う。

たしかに、そのとおりだと思う。
だが、かつて野中広務が語っていたように、元々日本人は一色に染まりやすい国民性なのである。
だからこそ、ちょっとしたことで世論が誘導される危険性を秘めている。
本来、人の世は順逆の世界である。
ほとんどのものが順逆という善と悪を内包し、ゆえに完全な善でも悪でもない。
だが、安直で稚拙な善悪二元論に傾倒しがちなのは、一般大衆だけでなく政治の世界にも感じる。
いよいよ、一億総白痴化時代が到来したのかもしれない。

その流れを受け、成田悠輔がユニークな視点で参戦する。

「それは“週刊文春文学”が関係しているように感じる。週刊誌的な書き方は一見、情報伝達をしているような雰囲気を醸し出している。だが、実際は情報を出す順番などを操作することによって、人の感情補正をコントロールしている。新聞や学術的なものなどハードな情報を提供する文体と、小説等のソフトで想像力や感情に働きかけるものをミックスすることにより、マスの感情を誘導する力を獲得しているのではないか。それが、人の心を操作するために作り出した独自の話法なのだろう」

なるほど、新聞の客体的な文章とは異なり、週刊誌は要所要所で主観と推測を織り交ぜながら、読者の感情を煽り誘導していく。
そして、その“現代文学”が社会的生殺与奪の権力を握っている。
これは紛れもない事実であり、その影響力は純文学の比ではない。

それにしても、“週刊文春文学”という表現が何ともユニークだ。

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まとめ

前編は面白い小説をワクワクしながら読んでいるようであり、新しい気づきの連続であった。
それは特に答えを模索するでもなく、各々が自由に小説を読んでいる時に起きている事象や、文学の本質について語り合っていたからであろう。

後編はひろゆきも指摘していたように、いつもの「RE:HACK」形式に戻り、課題解決のためのテーマに照準を当て議論が行われた。

全編を通して改めて思ったのは、成田悠輔という人物の知識の深さとインテリジェンスである。
彼は基本的にどのジャンルの話でも、説得力あふれる話を展開していく。
とりわけ今回は、学生時代から文学に触れ、今も文芸誌に連載をもつなど造詣が深い分野ということもあり、ただでさえ鋭い考察がさらに冴えわたっていたように感じた。

さらに、もうひとつ印象に残ったのはひろゆきの姿である。
普段は、人を小バカにしたような表情を浮かべたり、人を揶揄したりする発言が散見される。
だが、今回は序盤を除けば、そういったシーンはほとんどなかった。
むしろ、羽田圭介や成田悠輔の発言を聞きながら、ひとり俯き考え込む姿が頻繁に見られた。
その姿はあたかも文学の地平に思いを馳せ、その本質に迫ろうとしているかのようでもあった。
エンディングで少しおどけながらも満足そうに拍手しているひろゆきを見て、いかに意義深く濃密な議論が繰り広げられたかを再認識する。

「今日は羽田圭介さんをお招きして、言葉とは何か…文学とは何かという、とても楽しい議論からスタートしました。ですが、プロデューサーの悪意により、“岡田斗司夫が必要”という結論にたどり着いてしまいました」

最後はいつもの成田節が炸裂し、笑い声とともに番組がつつがなく終了した。

P.S. 素晴らしい番組なので一見の価値あり!特に前編はオススメです!
  ちなみに、私は高橋プロデューサーの回し者ではないですよー。

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