日経テレ東大学RE:HACK「芥川賞作家・羽田圭介」編 ~小説で自分という宇宙を旅しよう~

ノンフィクション




先日、YouTubeで「日経テレ東大学 RE:HACK」を視聴した。
この番組はひろゆきと成田悠輔がMCとして出演し、政治家をはじめとする様々なゲストを呼び、タブーに切り込んでいく内容となっている。

特に、イエール大学で教鞭を取る成田悠輔が興味深い。
膨大なデータに基づく様々な検証を専門とする一方、芸人顔負けのウィットに富んだユーモアに加え、ときに毒舌も振り撒いている。
にもかかわらず、聞きほれるような声質と理路整然とした語り口、そして何とも言えぬ当たりの柔らかさを兼ね備えた雰囲気も相まって、不思議と憎めないキャラクターなのである。

このような個性的かつ知的レベルが半端ないふたりを前にすると、あっという間に“似非”のメッキは剥がされる。
とりわけ某野党の党首と、自民党から出馬したものの落選した元グラビアアイドルの回は馬脚を露した典型例といえるだろう。
また、田原総一朗をゲストに迎えた時などは、成田悠輔が語る老害一掃論を後押しする秀逸極まりない、放送事故レベルのノンフィクションに仕上がっている。

この番組を初期の頃から見ている者としては、たしかに面白いのだが、残念な気持ちになることも多々あった。
ところが、先日視聴した芥川賞作家・羽田圭介の回は小説の魅力を再認識させられる、番組史に燦然と輝く神回となった。

もっとも「2日前に急遽オファーが来た。絶対誰かがキャンセルしたんで、その代打ですよね?」という羽田圭介のカミングアウトと共に幕を開けるのだが…。

天才たちの語らい

サムネに神回という表示があったものの、序盤はひろゆき特有のウザ絡みが目立ち、羽田圭介のトークもキレがなく、そこまでとは思えない。

ところが、羽田圭介のなぜ小説を書くのかという話をきっかけに、俄然YouTube史に残る神回へと変貌を遂げる。

ちなみに、この話題へと誘導した高橋プロデューサーの名ファシリテーターぶりも、付け加えておく。




1. 本当に伝わるもの

ひろゆきからYouTubeなどで話した方が楽なのでは?という質問を受け、答える羽田。

「しゃべりで伝わることと、小説などの風景描写で伝わることは別である。しゃべりで伝えることはある意味、要約された極論みたいなものだと思う。人が何かを認識するときは極論ではなく、風景を通して自分の無意識にも影響を与えるのではないか」

そして、核心へ向け言葉を継ぐ。

「強い言葉はたしかに掴みはいい。だが、右から左に抜け落ちていってしまう。自己啓発書ばかり読んでいる人は、頭の中に何も残っていない。だから、10年前から全く中身が変わっていなかったりする。強い言葉の伝わらなさを痛感せざるを得ない。
翻って、自身を振り返ってみると、小説は実生活での経験に近いものがあるように感じる。人の意識はごくわずかな表層の部分しか占めておらず、無意識の部分が物事を決めている。なので、自分の目で見た風景や人と会った時の感触など、意識の領域を越えて影響を与える経験に近い言葉しか、残らないのではないか」

羽田圭介の言葉を引き受け、ひろゆきが自らの仮説を提唱する。

「言葉にする安直さが腑に落ちないような…言葉は論理で使うものであり、本能で使うものではない。本能ではない後から習得した言葉というもので理解している限り、上っ面の部分で終わってしまう。人間はエピソード記憶の方が長く沁みわたる。言葉を使わずに理解して、それがエピソード記憶として定着したとき、その人の人格により強い影響を与えるということなのでは…」

この一連のやり取りを聞き、私は目から鱗が落ちた。
これまでの人生で、机上の理論ではなく自ら体験することの重要さを何度も説かれてきた。
だが、“なぜ”という理由を提示されたことは無かったように思う。
言葉での理解とは所詮は頭で理解しているだけに過ぎず、本能や感情に刻み込まれることとは似て非なるものなのだ。

私は少し前に、「四月は君の嘘」というマンガを読んだ。
“音楽は言葉を超える”というフレーズが物語の中に出てきたことが甦る。
真理だと思う。

しかし、それは音楽だけに限らない。
人は真の芸術や人間の真理を超越した奇跡の瞬間に出会った時、つかの間言葉を失う。
きっと、その感動を言い表すことが出来ないからだろう。
いや、それ以上に言葉など邪魔なだけで、ただ心の命じるままに余韻に浸っていたいのだ。


スクラップ・アンド・ビルド (芥川賞受賞作品)

2. 小説とは

羽田圭介はひろゆきの言葉に頷きながら、小説への思いをかく語る。

「そのエピソード記憶みたいなものを…言葉で作ろうとしているのかもしれない」

この羽田の話は、成田悠輔の小説に対する見解に通じるものがある。

「知識や考え方、言葉を学ぶのではなく、経験そのものや世界の動き方をミニチュアでシミュレーションするタイプのもの…それが映画やマンガ、そして小説なのではないかと思う。逆に、知識やエビデンスのようなものを求めるのならば、学術論文やデータそのものを見た方が早いと感じる」

さらに、成田悠輔は人類の歴史に絡ませて物語を書く営為を俯瞰する。

「物語を紡ぐことと絵を描くことは、人間がとってきたコミュニケーションのスタイルで一番古いものではないか。少なくとも数千年、下手すると一万年単位の歴史を持っている。これだけは産業や技術が変わっても、人類が細々とやり続けた活動のひとつだと思う。ただ面白いのは、ずっとマイナーな存在だったことだ。なぜならば、ほとんどの時代、文字を読める人はごくわずかだったからである。それでも連綿と続くこの人類の行いは興味深い」

なるほど、絵や物語の創作の歴史を振り返ると、いかにこれらが人間にとって普遍的なものであるかがよく分かる。
どんなに時代が変わっても、おそらく人間が生きる上で不可欠なものなのかもしれない。

3. 小説に近いのは映画?マンガ?

もうひとつ興味深かったのが、小説に近いのは映画なのか…それともマンガなのかという解釈の違いである。

羽田圭介は、小説は映画に近いと発言した。
それに対して、当初ひろゆきはマンガに近いと主張する。
根拠としては、映画は自分で時間をコントロールできないのに対し、小説とマンガは読む時間もスピードも自分でコントロールできるからだと言うのである。

だが、議論を重ねていくうちに、ひろゆきは羽田の意見に賛同する。

「たしかに小説同様、映画を観た時もそのシーンを沁みて覚えている」

そこに別視点から、成田悠輔が切り込んだ。

「先ほど小説と映画が同じカテゴリーで、マンガとかを別枠にするという話があった。その点で言うと、小説とマンガを一括りにして、映画やアニメと分けるのも自然なのではないか。自分から時間の流れを作り出していかないと動いていかないものと、勝手に動いてくれるという違いは大きいのではないかと思う」

なるほど動画的なものは勝手に流れていくので、ながら消費がしやすい。
他方、何かしながら小説を読むことは難しい。
成田悠輔の言葉を借りて言うならば、“小説とは異様なフォーカスと視野狭窄を求めるメディア”なのかもしれない。

それを聞いた、ひろゆきは思い出したように呟いた。

「僕はオーディブル(朗読サービス)で小説を最後まで聞くことができない」

自分で読む情報と同じものなのに、全く頭に入らないと言うのだ。

なぜなのか?と尋ねられた羽田圭介。

「時間のコントロールができないことが凄いストレスなんだと思う。自分のスピードで読み進め、理解したいのでは…」

そして、同じ問いをされた成田悠輔。

「オーディブルはそこそこ使うが、やっぱり小説とは相性が悪いと感じる。逆に、自己啓発書やビジネス書は相性が良い。小説はたぶん、時間の流れ方を脳内で変えているように思う。シーンによって費やしている脳内時間が全然違うのではないか。オーディブルみたいに一定速度で進んでいくようなものは、脳内時間と対応していないので消化しにくいように感じる」

小説を読んでいると、活字を追いながらいつの間にか脳内に絵を思い浮かべている。
その映像は個人のこれまでの体験やイメージにより千差万別だろう。
だからこそ、想像の翼を広げられ、各人が自由に楽しめるのかもしれない。
そして、当然、場面ごとに重要度や濃淡が異なるため、脳内に浮かべる映像の情報量や解像度も変わっていき、そこに費やす時間は一定とはならない。
にもかかわらず、メトロノームのように規則正しく刻まれるテンポが、そぐわないのは当たり前のように感じる。

いつも思うのだが、複雑で難解な事象でも噛み砕き平易な言葉に落とし込む、成田悠輔の言語化能力には感嘆させられる。

全体的に本動画を見て感じたのは、成田悠輔はもちろん、ひろゆきも知的レベルが非常に高い。
議論もまともにできない、知識も政策も信念もない政治屋とのくだらない討論で、この二人の知性を無駄に消費するのはもったいない。
たまには今回のように、知的好奇心をくすぐられる良質なテーマとゲストで番組作りをしてほしい。


22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる (SB新書)

まとめ

この番組の最大の功績はコメント欄にも多数寄せられていたように、「また小説を読みたくなった」というマインドを視聴者に醸成させたことだろう。

アニメや動画を前にして、活字離れが進む日本人。
かくいう私もマンガばかり見ており、最近は小説を読んでいない。
そんな我々に改めて文学の魅力を知らしめた、御三方の話はこれぞ知的エンターテインメントと呼べるだろう。

読書とは時間に制約されず、自分のペースで読み進め、自由に楽しむことができるものだろう。
読書の秋である。
文学という大空に飛び立って“自分という宇宙”を旅してみてはいかがだろう。

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