「BARレモン・ハート」~酒と粋が織り成す人間模様~③『少年時代の酒』Ⅰ

ドラマ




夜の帳が下りる頃、街の景観に溶け込むよう「BARレモン・ハート」の灯がともり出す。

その“街の小劇場”では、マスターがおもてなしの心で馴染みの客を歓迎する。

芳醇な酒が注がれたグラスの中で、溶けた氷が「カラン!」と音を立てた。

それを合図に、今日も大人のための寓話が始まるのであった。


BARレモン・ハート : 1 (アクションコミックス)

ストーリー

静かな客ふたり

カウンターで、スーツ姿の壮年ふたりがグラスを傾けている。
だが、彼らには全く会話がない。

そのひとり、野口はやや渋みのある表情を浮かべながら、酒を飲んでいる。
そして、連れ合いは、いかにも人の良さそうな雰囲気を漂わせていた。

そこに、常連客の松ちゃんが「お晩でやす」と喜色満面の笑みで入って来た。
カウンターに陣取ると、いつものようにウイスキーのウーロン茶割を飲みながら、フリーライターらしく執筆作業にとりかかる。

しばらくすると、怪訝そうな顔の松ちゃんは、マスターに小声で問いかける。
「マスター、あのふたり変わってるね。どういう関係?僕が来てから全然喋ってない。うわっ!なんとサイレントタイムは13分20秒じゃないか!」
腕時計を見ながら驚く松ちゃん。

程なくして、連れ合いは柔和な物腰で野口に暇を告げ、静かに帰って行った。

心の友

「マスター、ジントニックをもう一杯」
ひとり残った野口はオーダーした。
ジンとライムが入ったグラスに、マスターは手際良くトニックウォーターを注ぎ、軽くかき混ぜる。

目の前に差し出されたジントニックを見つめる野口は、マスターに視線を移し話しかけた。

「おかしいでしょう?今帰って行ったのは内田っていうんですが、あいつとはいつもこんな飲み方ばっかり。それなのに一緒にバーに来るなんて」

野口は続ける。
「気が合うわけでもない。共通の話題があるわけでもなく、一緒にいてもまるで盛り上がらない。でも、もう30年以上の付き合いになるんですよ」

その話を温かい眼差しで聴いていたマスターは、野口に言う。
「野口さんは、内田さんのお人柄に惹かれているんではないですかね」

「えっ!?」驚きを隠せない野口に、マスターは言葉を継ぐ。
「ここにお座りになった時に、気遣いの出来る優しい人だなと思いました」

実は、内田はマスターにさりげない気配りをしていたのだ。
マスターが松ちゃんのためにウーロン茶割を作っている時に、野口はおかわりを注文しようとした。
それを見た内田は瞬時に、それを制したのである。
少し間を置いた方がよいのではと…。

その僅かなしぐさをマスターは見逃さなかった。

マスターの鋭い観察眼に、野口は感嘆の声を上げた。
「さすがマスター!そんなところまで見てたとは…」
そして、頷きながら「たしかに、内田はそういう奴です」
野口は笑みを湛えて、マスターの言葉に同意した。

野口はタバコに火をつけ、内田とのエピソードを語り出す。

野口と内田は会社の同期だった。
会社は厳しく、同期で残っているのは自分たち二人だけだという。
今では、野口が部長で内田は係長。
自分の方が出世はしたが、幸せなのは圧倒的に内田だと言うのである。

「それは、なぜですか」
マスターは尋ねた。

それは今から10年程前のことだった。
出世こそしたが、家庭を犠牲にしてきた野口は日頃から妻との折り合いが悪く、その日も大喧嘩となり、妻は実家に帰ってしまう。
休日に一人残された野口は、なぜかふと内田の顔が浮かび会いに行った。

「小さな家で、あったかい雰囲気に包まれていた。奥さんの優しい笑顔、明るい子どもたち、小さな庭の隅に老犬がいて、その横に蚊取り線香があった。犬にまで優しくしているんだって、そのとき思いましたよ」

懐かしそうに語る野口が、僅かな悔恨を滲ませる。
「でも、我が家にも昔はみんなあったものなんです。それが少しずつ無くなって、気が付いた時には全て無くなっていました」

酒を煽り、やりきれない思いを流し込む。

「内田はそれほど親しいわけでもないし、困った時にもアドバイスをくれるわけでもないし、話も弾まない…でも、私にとっては大切な友人なんです」

しみじみと語る野口の話に、松ちゃんも涙ぐむ。

「野口さん、マスター冥利に尽きる素敵なお話、ありがとうございます」
心からお礼を言うマスターであった。

少年時代の酒

野口の切なくも、心にほのかな灯がともる話を受け、マスターが提案する。
「野口さんの心の友である内田さんを彷彿とさせる、ウイスキーは如何でしょうか」

「内田を彷彿?それは興味があるね」と答える野口に、用意されるウイスキー。
それは、北アイルランドで醸造されたブッシュミルズシングルモルトだった。

その酒に口をつける野口。
すると、笑みを浮かべ納得したように「あ~本当だ。これは本当に内田の酒だ。素朴で鄙びた味が内田とピッタリ合ってる。まるで私は麦ですって言ってるようですね」

「このウイスキーは麦芽だけを使っています。フルーティーな味わいが飲みやすくて、どこか懐かしい麦の風味がするお酒ですね」
マスターが優しい口調で解説する。

すると、野口は嬉しそうに語り出す。
それは遠い昔、過ぎ去りし少年時代の懐かしい思い出だった。

今度は、野口の話を楽しそうに聴いていたマスターが話し出す。
「いや~野口さん。私も一つ不思議な話があるんですよ。なぜだか分からないんですが、このブッシュミルズシングルモルトを飲んだお客様は、少年時代の思い出を語るんですよ。焦がした麦の味のせいなんでしょうかね。」

その不思議な酒を愛おしそうに見つめながら、野口は言った。
「マスター。今度、内田にもこれを飲ませたいな。内田とも、そんな話をできるのかな~…」

「是非、お二人でいらしてください」

BARレモン・ハートの夜は静かに更けていった。



所感

カウンターで肩を並べて男性ふたりが飲んでいれば、仕事のことや近況などを語り合うのが普通だろう。
にもかかわらず、全く会話が無いのだから、松ちゃんでなくても訝しがってしまう。

その疑問は、内田の人柄を看破したマスターの言葉で氷解する。
やはり、その表情が物語る内田の人柄に惹かれて、野口は酒を酌み交わすのだと。

野口の口から語られる内田とのエピソード。
その内容は、悲哀を感じずにはいられない。
会社のため、家族のため、身を粉にしてきた末のすれ違い。
一体どこで、ボタンを掛け違えてしまったのだろう…野口の悔恨は切ない。

それと対照をなすような、内田の温かいマイホーム。
人柄そのままの優しさで家族を包み込み、あたたかい空間に幸せの形があふれている。

立身出世だけでは計れぬ本当の幸せとは…。
人間にとって最も根源的なテーマを、内田は我々に示唆してくれている。

そんな内田だからこそ、野口にとってはかけがえのない友なのである。

心に残る話のお礼とばかりに、粋な計らいをするマスター。
毎度思うのだが、マスターの慧眼と酒の知識には恐れ入る。
無数に存在する酒の中で、いつもピッタリの銘柄をセレクトするのだから。

私もその酒の味わいを聞いて、なるほど内田を彷彿とさせると思った。
“素朴でフルーティーで飲みやすい”。
内田は見るからに素朴な人柄を感じさせる。
そして、フルーティーな飲みやすさとは、優しい雰囲気を漂わせ誰もが接しやすそうな内田の特徴を表している。

とりわけ、私が言い得て妙だと感じたのは、どこか懐かしい麦の風味がするというフレーズである。
辺り一面を覆う麦畑が、黄金色に輝いている風景。
それはどこか懐かしく、昭和の原風景の一コマであろう。
そして、マスターが勧めたウイスキーを内田の酒と認めた野口は、その味を絶妙な言い回しで表現した。

「そういえば、飲んだことがないのに懐かしい味がしたな…昔はあったのに今は無くなってしまった日本の心。そういうのを呼び起こす酒なんですかね」

この言葉こそが、内田という好人物を最も的確に表すものに違いない。
なぜか、内田という男には、古き良き日本人の心を感じるのだ。
だからこそ、内田からはどこか懐かしい、現代の日本人が失ってしまった善良さが伝わってくるのではないか。

野口ならずとも、私もぜひこの銘酒を内田に飲ませたいと思った。
果たして、内田も少年時代の話をするのだろうか。

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