「線は、僕を描く」レビュー 完結編 ~実り多き旅の終わり~

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名作の特徴とは、なんだろうか。
いろいろあるとは思うが、そのひとつに挙げられるのがエンディングの素晴らしさではないだろうか。

私がこれまで読んできた漫画の中で、最も読後感が良かったのは「めぞん一刻」である。
そして最近、それに匹敵するほど味わい深い作品にめぐり逢うことができた。
それは「線は、僕を描く」である。

両親を事故で亡くし、生きる意義を失った主人公・青山霜介。
そんな若者がひとりの名伯楽と出会い、恢復し、水墨画に目覚めていくストーリー。
美を描き、命を描く線はまた、その人自身の内面をも描くのであった。

命を描く

水墨画を始めてわずかな期間に、著しい成長を遂げる青山霜介。
師・湖山から出された次なる課題は菊だった。
進捗具合を聞かれた霜介は、冴えない表情を浮かべている。

「形ばかり描いてしまって…全く水墨になりません」

そんな愛弟子に篠田湖山は優しい笑顔で言う。

「ありのままに生きようとする命…それに深く頭を垂れて教えを請いなさい。命を見なさい青山君。美の祖型…描くべき本当の美しさが君になら見えるはずだよ」

その瞬間、霜介はハッとした。
菊を描こうとするあまり、忘れていた大切なことを思い出した気がした。

湖山のお見舞いの帰り、霜介は久しぶりに実家に帰宅した。
今は亡き両親と過ごした懐かしい我が家で、霜介は思い出に浸り菊を見つめる。
ここに来て菊を眺めれば、何かを掴めると思ったからだ。
そして、深き想いが込み上げる。

“哀しみに身を置いた日々さえも…決して忘れたくない。そして、その想いを花に変えて絵にしたい。そう…湖山先生のように命にそのまま触れるような”

迷いが晴れた霜介は公募展「湖山賞」に向け、暮れも正月もなく筆を走らせた。

“描こうとすれば遠ざかる…僕の描きたい絵から。形だけを描いてはいけない”

そう考えれば考えるほど、筆が進まなくなる。

霜介は初心に帰り、菊に教えを請う。
すると、これまで関わってきた絵師たちが心の中に現れた。
篠田湖山の筆遣い…西濱はこうして、翠山はこう…斉藤湖栖、そして千瑛は…。
当代きっての絵師たちは、みな命を描いていた。

目を開き、改めて菊の花を観る。

「命を見なさい」

篠田湖山の言葉を噛み締めて…。

陽の光に照らされる中、霜介はたしかに観てとった。
一輪の花の中にすら、それがあることを。

一方、千瑛も悲願の湖山賞を目指し、元旦から水墨の世界に身を投じていた。
やはり、千瑛も己の心に向き合ううち、あっという間に時だけが過ぎていく。
描くのは前回同様、牡丹である。

だが、題材は同じでも、千瑛自身は全く違っていた。
以前の彼女は、まるで突きつけるように押しつけるように、画仙紙いっぱいに描いていた。
内なる成長を遂げた千瑛は理解する。
“意識すべきは余白”だと。
そして、間もなくたどり着こうとしていた。
「心に描いた最高の花卉画」に…。

ふたりは時を同じくして、筆を動かした。
たった一筆でさえ、美しくあるように…心のままに、導かれるように。
そして、なぜか無性に感謝の念が湧き上がる。
とても大きなものに…ただそこにある美しさに…その翳りと輝きに。

霜介と千瑛は、己の内なる美を描き切った。




素晴らしき出会い

「湖山賞」当日。
ふたりは装いも新たに受賞式に臨んでいた。

霜介は一年前、ここで篠田湖山と出会ったことに思いを馳せていた。
そして、虚心坦懐にこう思う。

“今日この場所に来たのは、君を祝福しに来たのだ”と。

「湖山賞」は、真紅の牡丹を描いた千瑛が受賞した。
それは前回とは打って変わり、牡丹と余白が調和した見事な花卉画だった。
万雷の拍手の中、霜介はしみじみと感じ入る。
とてつもない精度の調墨で描かれた黒…それを際立たせる描かれない純白…それらは勇気と努力の末にたどり着いた千瑛の技術の結晶だ。

「湖山賞」には届かずとも、霜介の心は充足感に満ちていた。
なぜならば、自らが描いた菊の絵には、一年間学んだ全てを注ぎ込んだのだから。
それは、なにも技術だけではない。
己に内在する想いや心の全てまで描けたのである。

「青山霜介君!」

いきなり、壇上の篠田湖山から呼ばれた。
霜介は理由も分からず、ただただ狼狽する。
実は、霜介は審査員特別賞を受賞していたのである。
それは、篠田湖山と並ぶ水墨画の巨匠・藤堂翠山が選んだ「翠山賞」だった。

壇上で開帳する青山霜介渾身の菊。
まさに花卉をとおして、命そのものが描かれている。
その美しさに、千瑛をはじめ会場の人々は息を呑む。

「おめでとう。君に審査員特別賞翠山賞を授与します」

篠田湖山から賞状を受け取った刹那、師と紡いだ珠玉の時間に思いがあふれ出す。

“違う…違うんてす!僕の賞では…僕ひとりの賞ではないんです!たくさんのお手本があったんです。数えきれないほどのお手本をもらっては、僕の心の内側にしまっていったんです”

そして、これまでの出会いが胸に去来する。

“優しかった両親。孤独な自分の傍らに寄り添ってくれ、切磋琢磨した千瑛。殻に閉じこもる自分に手を差し伸べてくれた古前君と川岸さん。兄弟子として、惜しみなく持てる全てを伝えてくれた西濱さんと斉藤湖栖さん。悲しみのほかにあるものに気づかせてくれた藤堂翠山先生。出会った何もかもが…僕のお手本でした”

会場に拍手が鳴り響く中、篠田湖山は静かに語りかける。

「聞こえるかい?青山君。みなが君の絵は素晴らしいと…見事だ!君の想いは伝わっているよ」

そして、感無量の霜介は千瑛と固く握手を交わした。


線は、僕を描く 4 (本ストーリー収録巻)

素晴らしき旅の終わり

受賞式が終わり、史上最年少で「湖山賞」を受賞した千瑛は、その美貌も相まってマスコミから取材攻勢を受けていた。

霜介はその喧騒から逃れ、ひとり庭に咲く桜を眺めている。
そこに西濱らと共に藤堂翠山がやって来る。
「翠山賞」受賞に謙遜する霜介に、翠山はこう言った。

「謙遜することはない。君の菊の絵…ああいう絵は技術だけでも才能だけでも描けない。あの絵にはきちんと生きた人だけに見える世界がある。…などと、固い話はもうやめておくか…桜を見ていたのか?」

霜介は桜を見上げ答えた。

「はい…綺麗だなって…一年前はここに桜が咲いていることにも気づきませんでした」

そう語る霜介に西濱たちは促した。

「行ってきな青山君。あの絵の前で千瑛ちゃんが記者たちに捕まっていたのは、あそこで君と話したいからだと思うよ」

千瑛のもとに向かう途中、霜介は湖山とすれ違う。

「桜を見ていたね青山君。桜は綺麗かい?美しい絵を描けるのは、それが美しいと分かるからだ。花を綺麗だと感じることや…美味しいお弁当…友達の想いや季節の移ろい…この世界にある素晴らしいもの…君の心はたくさんのそれに気が付いた。それが君の一年だったのかもしれないね。さあほら、千瑛が待ってるよ」

青山霜介は目を輝かせ、千瑛と“二枚の絵”が待つ場所へと向かった。




所感

読み終わって思うのは、「線は、僕を描く」というタイトルの秀逸さである。
普通なら「僕は、線を描く」だろう。
たしかにそうなのだが、水墨の本質は線で形のみならず、「命そのもの」や「心」まで描き出す。
つまり、描かれた「線」に絵師自身の本質が表現されている。
それゆえ、線自身が描き手たる「僕」を描いていると言うのである。

篠田湖山の導きもあり、ついに霜介はその境地に到達する。
そして、千瑛も己の課題を克服し、花と余白の調和を具現化した。

結果、僅差で「湖山賞」は千瑛が受賞する。
だが、私には青山霜介の“菊の絵”の方に心惹かれた。
それは、藤堂翠山の語った言葉が物語る。

「君の菊の絵は技術だけでも才能だけでも描けない。あの絵にはきちんと生きた人だけに見える世界がある」

それにしても、青山霜介という若者の謙虚さと心の美しさが胸を打つ。
本来、人は欲深き生き物であり、顕示欲と名誉欲の塊である。
しかし、霜介は心から千瑛を祝福し、ただ自らの想いを描けたことに満足する。
こうみると、青山霜介は人との勝負や賞レースに価値を見出すのではなく、水墨の本質「命を描く」ことのみに没入していることがよく分かる。
こうした彼の限りなく澄んだ魂があるからこそ、この作品は素晴らしいに違いない。

それに加え、最終回の粋な演出も読者への嬉しいギフトである。
お世話になった西濱や藤堂翠山が現場に駆け付け、霜介を讃えている。
さらに受賞の一報を受け、「霜介の良き友人」古前君と川岸さんが久しぶりに登場する。
そして、とっておきのサプライズとして、湖山会を去った斉藤湖栖の元気な姿まで見せてくれた。
湖山や千瑛だけでなく、彼らがいかに霜介にとって大きな存在だったのかが窺える。
フィナーレで、読者が霜介ゆかりの人々と再会を果たせたことにより、より一層さわやかな読後感が生まれたのだ。

そして最後は、やはりこの人を置いて他にはいないだろう。
「人生の師」篠田湖山である。

一年前、すれ違った一瞬で霜介の孤独を見抜いた千里眼。
その本質を見通す慧眼があればこそ、あれだけ人の心を打つ「命」を描くことができるのだろう。
水墨の巧拙よりも、霜介の幸せを願う名伯楽の想いに涙を禁じ得ない。

そんな湖山が本当に嬉しかったのは、霜介が「翠山賞」を獲得したことではないだろう。
桜を美しいと感じることができ、かつて味がしなかった食べ物が美味しいと思え、善き人々との良縁にも恵まれた。
青山霜介という若者が、そんな素晴らしきものに気付けたことが何よりの喜びたったに違いない。

青山霜介の旅路は、ひとまず終わりを迎えた。
だが、彼はまだ若い。
これからも、水墨という見果てぬ旅は続くだろう。

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